『セカンドアフターEX2012』第二版追加・修正点

以下が初版からの追加・修正点となります。

表紙
微調整

杜王町から考える
p.40下l.19
『デッドマンQ』

デッドマンズQ

p.43-45
注を微調整

ラブ・デラックスは砕けない
p.49下l.5
描かざる得なくなってしまったのだ

描かざるを得なくなってしまったのだ

亜人間は箱入り猫の夢を見るか
p.59上l.9
まず「キャラ」が「キャラクター」」に

まず「キャラ」が「キャラクター」に

p.59下l.3
夏目房之介は、手塚は登場人物の

夏目房之介は、手塚治虫は登場人物の

p.60下l.22
「コーラ kaora」

「コーラ khora」

p.61下
苦悩――それは「人間」そのものだ――に塗れていた

苦悩――それは「人間」そのものだ――に塗(まみ)れていた

p.67上l.17
「一時創作」

「一次創作」

p.99
以下の文章を挿入

編集後記に代えて  志津A

 『ジョジョの奇妙な冒険』第四部には、『The Book』という乙一の書いたノベライズが存在する。この作品で描かれているのは、言ってみれば、その後の杜王町である。東方仗助たちが吉良吉影と闘った一九九九年という世紀末の翌年、二〇〇〇年の杜王町がそこでは描かれる。
 第四部において父と子との間の継承の問題が描かれていたのと同様、『The Book』においても父と子の間で受け継がれるものがテーマとなっていると言えるが、そこには何かしら否定的なものが、言うなれば、負の継承とでも呼べるようなものが存在している。
 『The Book』に登場するオリジナルのキャラクター、蓮見琢馬と双葉千帆とは、彼らの父たちが残した負の遺産清算するために事件を起こす。別の見方をすれば、彼らの存在そのものが父たちの残した負の遺産であり、彼らの行動原理は、そもそもの初めから、その生のうちに書き込まれていたと考えることができる。
 こうした負の継承については、まさに、『ジョジョの奇妙な冒険』の最新作である『ジョジョリオン』においても、「呪い」という言葉によって指し示されているものだろう。一族の血を引き継ぐこと、同じ土地に住み続けることのうちには、正の継承だけではなく、負の継承の問題も伏在している。
 しかし、よくよく考えてみれば、こうした継承の問題にあっては、その正負を判然とは分かちがたいところがある。個人の存在を生まれたときから規定し、人生を限定するような枷という観点からするならば、どのような継承においても、何かしら否定的な側面というものを拭い去ることはできない。
 自らの運命から逃れようとするまさにその逃走行為によって運命の深みへと逆にはまりこんでいったオイディプス王のように、受け継がれるべきものは必ずその継承者へと手渡される。『The Book』に見出されるのはそのような運命の輪の回転であり、同種のことは、また別の形で『ジョジョリオン』にも見出される。
 『ジョジョリオン』が示しているのは杜王町吉良吉影という名と強く結ばれているということである。第四部においては部分的な繋がりしかなかったジョースター家・東方家・吉良家という三つの家系が相互に強く結びついていることが示される。
 『デッドマンズQ』においても、幽霊となった吉良吉影が再び杜王町(正確には「杜王区片平町」)を訪れることになるわけだが、こんなふうに吉良吉影の新たな遍歴が描き継がれることのうちに、『ジョジョ』という作品のうちに「その後」の観点が明確に組み込まれていることが理解される。「その後」の観点とは、物語がそこで完結せずに、物語の綻びからまた新たな物語が始まっていくという、そのような一種の螺旋運動のことである。
 おそらく、吉良吉影というひとりの殺人鬼を排除するだけでは、杜王町の物語は完結しないのだろう。と言うよりも、吉良吉影のうちには何か過剰なものが、どんな困難な状況にあろうとも、出口を求めて行動し続ける生への執念のようなものを見出すことができる。こうした執念が作品の枠組みを超えて、杜王町の新たな物語を生み出す原動力になっていると考えられるのである。
 性急な終わりを求めるカタストロフという名のシニシズムに対抗できるものがあるとすれば、それは、このような生の過剰であるだろう。『The Book』が双葉千帆の懐妊を示唆することによって終わっているように、生の過剰こそが「その後」の観点を切り開く。たとえそれが呪われた生であったとしても、いや、むしろそうだからこそ、そのような生の過剰が、完成した(すでに理解されてしまった)物語に亀裂を生じさせるのである。

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